突然ですが
思うところあって、このブログ、近日中に閉鎖します。
今まで読んでくださっていた皆様、ありがとうございました。
いずれ、復活するかもしれませんが、しばらくはブログから遠ざかろうと思います。
なお、ミクシィの方はやっておりますので、もしよければ、そちらでマイミク申請してください。よろしくお願いします。
碧野 圭
思うところあって、このブログ、近日中に閉鎖します。
今まで読んでくださっていた皆様、ありがとうございました。
いずれ、復活するかもしれませんが、しばらくはブログから遠ざかろうと思います。
なお、ミクシィの方はやっておりますので、もしよければ、そちらでマイミク申請してください。よろしくお願いします。
碧野 圭
今朝の「とくダネ!」のトップニュースは珍しく芸能ネタ。真矢みきという女優の結婚の話だった。
昔は芸能ニュースがトップに来ていると「けっ」と思ったものだが、ここのところ、悲惨な事件ばっかりがトップニュースだったので、こういうネタがトップに来ているとほっとしますね。昨日は日本も平和だったのか、と思えるし。結婚とか出産とか、基本的におめでたいお話だから、テレビの出演者も笑顔を浮かべている。たとえ作り笑顔でも、深刻な顔を見るより全然、マシ。朝はそういうニュースから始まった方が、やっぱり気分がいいなあ。これだけ事件が続くと、テレビを見るのが辛くなる(だったら消せばいいだけなんですけどね)。
でも、これはメインキャスターの小倉智昭が夏休みなので、いつもとセレクションが違うからなんでしょうかねえ。なんて、深読みしたりして。
今日も大きな事件がなく、明日の朝はドリカムの中村正人の結婚の話がトップになるといいと思います。
友達からいい話を聞いたので、忘れないように書いておこう。
感情的になってメールを書いた時は、相手に送らず、まず自分自身に送ってみる。一晩経って読み直してみて、大丈夫だったら相手に送るといい。
なるほど、と思った。メールって便利だから、感情の赴くまま一気に書き散らして、そのまま送ってしまうってこともたまにある。これが手紙だったら、便箋を選んだり、文字の配列を考えたり、わからない漢字を調べたり、いろいろ手続きがあるんで一気に書き散らすなんてできないんだけど。
パソコンの場合、考える速度と書く速度がとても近いので、その分、感情的に書いてしまうこともありがち。それで何度か自分も失敗したし。
便利ってことは、時に落とし穴に嵌るなあ、と思ったりもする。
これからはやばいかもしれないと思ったら、この手を使おうと思ったことでした。
梅干のために漬けた梅、そろそろ梅酢が取れるかと見てみたら。
梅酢は確かに出来ていた。しかし、ぎょっとした。
梅酢が出て水かさがあがり、重り代わりに使ったダンベルのところまで浸している。問題は、そのダンベルにアルミホイルが巻かれていたことだ。
アルミは酢に弱い。酢に浸かった部分のアルミが溶け出している。どろりとした銀の物体が梅を汚している。
「こんなことがあるんだ」と、しばし呆然とほうろうの鍋の中を眺めていた。
やっぱり専用の重しを使わなければならなかったのね。
梅酢はいい匂いをしていた。これを使って酢の物や寿司を作ったら、さぞ美味しいかっただろうな、と思いつつ、泣く泣く全部捨てた。さすがにアルミが溶け出しているので、これを使う気にはなれない。梅の実は洗い、焼酎で消毒して塩を振った。だめもとでもう1度漬けてみようと思う。カビが生えてきたら、全部捨てて一からやり直しだ。
やっぱり馴れないことをしようとするのがいけなかったかしら、と思いつつ、あきらめきれずにいる私。
梅干を漬けてみた。
今までは、人にもらった梅干が余るほどあったのだけど(そのうちの2壜は、火浦功さんの奥さんにいただいたもの)。
毎日、息子のお弁当に梅干を入れていたら、残りが少なくなってきた。買ってくるのも、添加物とか不安だし、思い切って漬けてみることにした。生協で梅が思いのほか安かったし。
梅を漬けるってすごいことのような気がするが、友達は味噌を作っているというから、それに比べれば簡単なはず。
「きょうの料理」のテキストを参考に、一個一個ヘタを取り、焼酎で消毒して、塩にまぶす。
ここまではよかった。
問題は、重し。梅の倍の重さで漬けろとある。梅が1キロなので、重しは2キロ。うーん、用意してなかったな。なんか、代わりはあるだろうか、と考えて、思いついたのはダンベル。
ちょうど1キロのダンベルが2個、あるじゃないか。
それで、ダンベルを重しにしました。一応、ホイルで包んで、万が一、梅酢が上がっても大丈夫なようにしておきました。
これでしばらく漬けておいて、赤じそ出回ってきたら、また作業にかかる。
途中、梅酢を取れたりするらしい。不安はあるが、楽しみでもある。
昔の主婦は、みんなこれをやっていたんだから、私にだってできるはず。と、思っているがどうだろう? とりあえず、仕上がりを楽しみにする毎日である。
昨日、TVの「はなまるマーケット」のお弁当特集を見た。この春から高校生の息子のお弁当作りを始めたので、何かヒントになるかもしれない、と思ったのだ。
見てびっくり。今の幼稚園のお弁当はたいへんなことになっているんですね。ものすごく芸が細かい。ご飯ひとつでも、のりで顔を描いたり、文字を描いたり、動物の顔にしたり。おかずも、ブロッコリーにチーズの丸い切り抜きを載せて木の実に見立てたり、スナップエンドウを開いてクリームチーズを詰め、その上に可愛く豆を置いたり。いちいち手が込んでいる。
私にはとてもできません。
だけど、そうしたお弁当を作るためのグッズがすごく売れている、こうしてテレビで特集されるということは、ちまたでもそうしたお弁当作りが流行っているんでしょうね。
好きで得意な人はいいけれど、私のように不器用でこうした細工が苦手な人にはプレッシャーだろうな、と思いました。
私の場合、とにかく朝起きて、詰めるだけで精一杯。腹持ちがよく、おいしく食べられるように、と考えてはいるけど、ワンパターンに陥りがちなので、息子に申し訳ない。昨日の番組を見て、もうちょっと頑張ろうとは思いました。
だけど、ああいうお弁当を作る人は、おかずも全部手作りなんだろうか。詰め方に凝るのはいいけど、あれで冷凍食品だったら興ざめだな、と思ったりもしました。
先日、友人とある小説の話をしていた。少し前に大ヒットしたものだが、そのオチの部分に骨髄バンクの話が出てくる。小説として素晴らしいし、私もとても好きな作品なので、あまりケチをつけたくないが、私がいまいちぴんとこなかったのは、1度骨髄を提供した人が、次のチャンスをしきりに待っている、という部分だ(もちろん、提供者がどうやって患者の情報を知りえたか、ということもありますが)。そうそう、提供の依頼はこないと思うのだが。
実は、私も骨髄バンクにドナー登録している。もう3年近くになるが、いまだのなんの連絡も来ない。事務局からの新聞を見ると、登録しても5年、10年、連絡がないこともざらにあるらしい。登録したからには提供したい、と私も思うのだが、このまま提供することもなく、卒業(提供できるのは54歳まで)になったらどうしよう、と思う。
ドナー登録している話を友人にしたら「偉いね」と感心されたが、エライというよりは、私的にはロマンだと思う。親でも兄弟でもなかなか適合しない白血球の型(HLA)が、見ず知らずの誰かと適合する、しかも、その相手の命を救えるかもしれない。これは、すごいことだと思いませんか? しかも、その相手やその人を愛するひとたちに、とっても感謝されるというおまけまで(おそらく)つくんですよ。
もちろん、提供にはリスクがないわけではないが、それにしても、確率はものすごく低い。交通事故に遭う確率の方がよっぽど高いんじゃないだろうか。そんなことを恐れて、提供を躊躇するのは、すごくもったいないことだ。
実は骨髄バンクは私の学生時代から設立の動きがあって、それを知った時点で、私も参加しよう、と思っていた。しかし、当初は登録のための検査だけでも結構、たいへんだと聞いていた(今は献血並みのお手軽さ)し、万一、提供することになったら、4日から1週間くらいの入院が必要になる(これは今も変わらない)。子育てしながら会社員をしていた頃は、それだけの休みを取るゆとりも体力もなかった。だから、会社員を辞めてゆとりができ、ドナー登録できた、というのは、長年の宿題を果たしたようで嬉しい。
しかし、もうちょっと早く提供者になっていれば。
もしかしたら、私の型が本田美奈子さんに合ったかもしれないのに。
そう思うと、とても残念である。
最近のスピリチュアルブームの流れのひとつで、そうじをすると運気が上がる系の本が売れてますね。運って、そんなことで上がったり下がったりするのか、と突っ込みを入れたくはなりますが、主婦な毎日を送っていると、それが売れる理由がわかる気がする。
家事の中でも、掃除というのは一番、手を抜きやすいものだったりする。炊事はやらなきゃ飢えるし、洗濯はしなければ着るものがなくなる。しかし、「埃じゃ人は死なない」と昔から言われるように、多少、部屋が汚くても、困りはしないのだ(アレルギーとかがあれば別ですが)。
私の家は古いタイプのマンションなので、床はフローリングではなく絨毯が敷き詰めてある。だから埃は目立たない。そうなると、ついつい手も抜きたくなるというもの。だいたい、一生懸命掃除したところで、子どもがいれば、あっという間に汚くなりますからね。賽の河原に石を積むような虚しさを感じたりもする。
だから、掃除をすることにプラスの価値観が欲しかったりするのだ。掃除をすれば運気があがる、とか、家に結界を張ることだ、と言われれば、遣り甲斐もあるというもの。
実際、やってみれば気持ちがいいし、ものが整理されれば探し物をする時間がいらないし、2度買いとかする無駄もない。掃除をすることで悪いことがないのは事実。何より、私はちゃんと家のことをコントロールしているという充足感が得られるし。
だから、ああいう本が売れるのも、悪いことではない、と思う。そういう本を買うのは、前向きに家事をしようという意志の表れだから。というか、そういうことで自分の内部に価値観を見出さないと、家事をするのは辛い。家事って評価されないものだから。
それを思うと昔の主婦は偉かったですね。文句を言わずに、今の人たちよりはるかに膨大な家事をこなしていたのだから。だけど、昔も「台所を汚くすると竈の神様に怒られる」というように言われたりしたんですよね。昔の人は八百万の神が万物に宿ると考えていたから、米粒ひとつもおろそかにできない、と思っていたわけで。それって、開運そうじ法と根っこは同じ。なんのかんの言っても、最近のスピリチュアルブームというのは、新しいようで結局は先祖がえりしているんじゃないか、と思いつつ、今日も掃除に励むことにしよう。
月曜日から、微熱と頭痛に悩まされ、寝たり、起きたりの日々。
おかげで、今週行くはずのイベントふたつをキャンセルするはめに。
ひとつは火曜日のボランティアイベント。久々の大きなイベントで、ここでしか会えない友達にもたくさん会えるはずだったので、とても残念。
それから、今晩、立川のオリオン書房で開催される柴田元幸さんと岸本佐知子さんのトークイベント。昨年の私のベスト1本は岸本さんの「ねにもつタイプ」だったりするので、その著者に接近遭遇できるこのイベントにも、とっても行きたかったんだけど。ついでに、オリオン書房で岸本さん翻訳本を買ってこようと思ってもいたのだけど(近所の本屋では見当たらないので)。がっかりです。
今週はイベントウィークだったので、実は週末にも「メッタ斬り」イベントにも行くつもりで予約を入れている。さすがに日曜日には体調も戻るはず、と思うのですけど、イベント運に見放されているみたいで、ちょっと不安な今日この頃。
家に引きこもっているうちに、東京はどんどん変化しているらしい。
今日、友達と会うために久しぶりに有楽町駅で降りたら、様子が違う。有楽町イトシアという新ビルがいつのまにか出来ていた。知らんかったよ。去年の10月にはオープンしていたらしい。
うっかり、今書いている小説の中に
「映画館の入っているツインタワーの間を通り、果物屋のある細い路地を抜けると有楽町の駅に出る」
という描写を入れちまった。果物やは健在だが、反対側にイトシアが建ったために、その間の路地は堂々たる道幅に広がっている。やれやれ、文章、変えなきゃだわ。
ほかにも、飯田橋から九段へ抜ける「アスファルトの歩道」(と小説には書いた)がいつのまにか「石畳の歩道」に変わったとダンナに教えられるし。
まあ、小説には年月日が入っていないから、2年前の話ということでもよかったりはするんだけどね。そういうことにしておこうかな。ほかにも同じような見落としがあると、一部は新しいものになっているのに、そうでないところと混在することになる。その方がまずいもんな。私の記憶にある東京のままで統一した方がいいんだろうか。
にしてもね。イトシアって、結構有名らしいです。ほかにも丸の内とか赤坂とかにも新名所が出来ているらしく。おばさんにはついていけません。そういえば、朝の「とくダネ」で見た気もするんですけど、どうでもいいと思っているので、ちっとも頭に入っていない。
とりあえず、イトシアの地下のドーナツ屋で並んでドーナツを買いました。並んでいる間にドーナツを1個貰ってちょっと嬉しい。これで、トレンドをひとつ押さえたぞ、と自慢しておこう。
暇だから、というわけでもないが、区の主催するパソコン講習会に出掛けた。
パソコンについては、仕事でそこそこ不自由しない程度には扱える(つまり扱えるのはワープロと、メールと、インターネット機能のみ)のだが、画像の取り込みとか処理についてはまったく駄目。夫や息子が得意なので、ついつい頼んでしまうから。そういえば、独身の頃は、ステレオの配線とかも自分でやっていたのに。結婚して、夫頼みになって、堕落したんですね。一方、夫は独身の頃は自炊だったはずなのに、今では夜食のラーメンを作る以外はまったくやらない。どっちもどっち、ってやつですか。
受けたのはデジカメと連動させたパソコンの扱い方を教えてくれる講座。
面白かった。いままでうろ覚えだったのが、こうやればいいのか、とわかったことがいろいろあって。自分はデジカメひとつ満足に扱えていなかったんだなあ、と実感する。オートでもズーム機能が使えたんだね、なんてことすら知らなかったよ。説明書を読まない人間って、その程度のものさ。
そんなわけで、3回の講習会が終わったあとは、スキルがずいぶんあがることでしょう。そうしてこのブログも、画像をいろいろ貼った美しい画面になるんじゃないかな?
どうなることやら、乞う、ご期待。
自分で出来る分の直しは終わった。
あとは編集者からの返事待ち。この期間が一番、落ち着きません。また、直しが入るかもしれないので、今まで書いていた作品のテンションを自分の中に残さなきゃいけないし。だけど、さすがに半年以上、同じ作品世界に浸っていたので、そろそろ次に移りたくもあるし。
そんな宙ぶらりんな気持ちだけど、ようやく人の作品も読めるような感じにはなってはいる。書いている作品がある意味、完全に自分のものになったので、ほかの作品に触れても今なら影響されないってことでしょうか。
昨日、久々に読書。小川洋子さんの「凍りついた香り」。小川さんの作品は好きなので、ばらばらと読んでいて、たまたまこれはどこかで買って、書棚に置きっぱなしになっていたもの。自分の書くものとは全然、違うものが読みたかったんですね、きっと。
久しぶりの読書は気持ちよかったなあ。小川さんの作品特有の静謐な雰囲気というのがとてもよく出た作品で、読んでいる間、心穏やかになれました。
自分の中にあって、だけど普段は出てこないような感情とか意識が浮かび上がってくる、あるいは増幅される、それが読書の効用だと私は思う。小川さんの本というのは、本当に繊細な、知的な、感覚的な何かを呼び覚ますところがあって、それが押し付けがましい形ではなく、内省的な形で問い掛けられる。そういうところが、すごく好き。
まあ、自分との差を考えると絶望的になるんですけどね。でも、そういうものだからこそ、読んでみたいと思うアンビバレンツもあったりするわけで。まあ、そんなわけで、しばらくは読書三昧になるでしょう。
って、まあ、人混みが好きな人はそんなにいないと思うんですけど。
今日、ちょっと用があって新宿に行き、すっかり人混みが苦手になっている自分を発見する。ついでに靴でも買おうと思っていたのに、それすら嫌で、一刻も早く家に帰りたい、といてもたってもいられなくなって、そのまま帰ってきてしまった。
だけど、自分も都心(山手線沿線)に住んでいるのに。
中野区、新宿区、豊島区、千代田区、渋谷区、港区あたりが行動範囲だというのに。
というか、そこから出ることは1年のうちでも数えるほどしかないというのに。
ずっと家に篭っているうちに、すっかり都心が苦手になってしまった。いまや、高田馬場以上の都会には行けないかもしれない。なんか、ちょっとショックだった。
原稿の直し、あと一息で終わる。
なので、毎日、単調な日々。朝、5時ごろ目が覚めると今日、直すシーンのことを布団でぼーっと1時間くらい考え、平日であれば6時過ぎには起きだして次男の弁当と朝食の準備をする。夫と息子を家から送り出すと、原稿の直しにかかる。書いては考え、書いては考えしているうちに夕方。原稿を中断してテレビを見ながら、夕食の支度。何か足りないものがあれば買い物に。
夕食が終わったあとはだらだらして、時にはちょっとストレッチなどをする。11時には眠くなって布団に入る。
そんな具合。まあ、週に2回はストレッチの教室に出掛けるし、時には買い物で駅の方に出掛けたりもするけれど、ほぼこんな感じ。あ、土日はちょっと違いますけど。
だから、ブログに更新するネタすらない。つまらない毎日、といえばそう。
だけど、本人、結構幸せ。頭の中の物語の世界に浸ってるのが楽しい。脳内世界で満足している。けれど、本人気づかないうちに、結構、疲れが溜まっているらしい。整体の先生に「睡眠不足ではないか?」と聞かれる。そういう症状が身体に出ているらしい。睡眠が浅く、疲れが取れていないのだそうだ。確かに、身体がだるい。結構、息も絶え絶えな感じ。でも、本人あんまり自覚がない。だから、やばいんよね。身体のことに意識が回っていないということだから。
あと少しで今の分に決着が着くから、そうしたらしばらくは遊ぼう。何も考えず、人と会ったり、いろいろインプットもしなけりゃな、と思いつつ、作業を続ける。
日曜の夜から頭痛。肩や首の凝りが頭にまで達するといういつもの症状。とくに右側が酷い。月曜になってますます酷くなったので、鍼に行く。ここはもう20年も通っているところだが、いつもとは違う先生に初めてお願いしてみる。先生は、
「凝りが固まっていますね。右よりも左の方が酷いですよ」
それで治療してもらったら、途端に疲労感と痛みでぼーっとなって布団に寝付く。
この感じ、何かに似ているなあ、と思ったら、風邪の症状だ。実は私はもう15年以上も37度以上の熱が出たことがない。子どもが小さい頃、「風邪引いたな。この分では熱が出そうだな」と思った途端、自分より先に子どもが熱を出した。それで上がり掛けた自分の熱を無意識に止めたらしい。それ以来、熱を出すことができなくなった。
東洋医学的には、時々熱が出た方がいいのだそうである。熱が出ることで悪いものが燃焼され、身体がすっきりするのだそうだ。それが私はできないから、もやもやと身体の中に悪いものが溜まっている気がしないでもない。
鍼に行ったあと、3日ばかりこんこんと寝ていました。だるくてパソコンに向き合う気力もないし、本を読むのもだるい。テレビの音は頭に障る。食欲もないのでほぼ絶食。ただただ、ぼーっと寝ておりました。ここ数年溜まっていた疲労が、ようやく出てきたのかな。
今日はようやく起き上がれるくらいに回復。これだけ寝込んだのだから、蓄積疲労もかなり解消されたことでしょう。さあ、元気を出して、仕事、頑張ろう。
朝、目を覚ましたら台風かと思うような雨と風。
しかし、次男の高校の入学式。頑張って行きました。
家を出て5分も歩かないうちに、大風で傘が壊れた。
山手線がすごい混雑で、右足の置き場がなくてしばらく片足で立っていた。
乗り換えの地下鉄が10分近く遅れた(東京では珍しい)。
そんなわけで、散々でした。息子のこれからの高校生活を象徴しているんではないか、とちょっと不安になったりもして。
もっとも、入学式は無駄な長話もなく、最初と最後に流れた上級生のコーラスも美しく、感動的でした。きっと、雨降って地固まる高校生活になるのだろう、と信じたい。
明日から弁当作りも始まる。長男は必要ないので、弁当を毎日作る生活というのは今回が初めて。息子が高校生活になじむかよりも、実はそちらの方が心配。なんとか3年間、頑張らなきゃ。
桜を十分堪能する前に、散ってしまいそうだ。今日の雨。今年は一斉に咲いてとてもきれいだったのに。
天気がよかったら今日はどこかへ花見に行こうと思っていたのだが。残念。
桜が終わりそうなので、タイトルバックもちょっと変えてみました。ココログのやり方が替わって、デザイン変更が容易に出来るようになったのが嬉しい。毎月、変えてみようか、と思ったりしている。
息子のいらなくなった教科書類を整理していたら、「公民資料」(東京法令出版)というのが出てきた。それをぱらぱらめくっていたら「江戸川区の子育て支援 保育ママ」というコラムが出ていた。
江戸川区が安い金額で、生後9週間から1歳未満の子どもを預かる保育ママ制度を行っていること、保育ママ制度に代表されるさまざまな子育て支援制度が功を奏して、江戸川区は23区で最高の出生率にある、といった内容が書かれていた。
それを読んで、次男が0歳の頃、実際に江戸川区に住んでいた私は、複雑な気持になった。このコラムには、一番大事なことが書かれていない。
「江戸川区の公立保育園では0歳児の保育をやっていない」
江戸川区の保育ママ制度については、乳幼児期には母親かそれに替わる人とのスキンシップが大事だ。だから保育園のような施設に預けるより、保育ママのような個人に託す方がいい、という建前になっている。
江戸川区が0歳児保育をやったうえで、保育ママ制度を導入しているのなら、立派なことだと思う。しかし、保育ママ制度をやっていることが、江戸川区が公立保育園で0歳児保育をやらない言い訳になっている。
なぜ、公立保育園で0歳児保育をやらないのか。
そちらの方がお金がかかるからだ。
美濃部都知事の遺産で、東京都は全国でも保育園の基準が高い。ことに0歳児保育を行う公立保育園には厳しい基準がある(手元に資料がないので正確な基準はわからないが、沐浴できる設備を整えたり、看護婦を常駐させたり、3人にひとりの保母をあてたりする必要があったと思う)。
そうした設備を整えたり、人件費を割きたくないがための保育ママ制度ではないか、と私は思う。本気でスキンシップ云々が理由なら、なぜ保育ママは1歳までしか見てくれないのか。3歳まで見るべき(いわゆる3歳児神話に基づけば)なんじゃないの?
断っておくが、私は保育ママ制度を否定するつもりはないし、保育ママとして活動されている方たちは毎日非常に努力をされていることと思う。保育ママに預けてよかった、という親御さんも知っている。
だが、だからといって区が保育園で0歳児をやらなくていい、ということではないだろう。保育ママがいいか、保育園がいいか決めるのはお役所ではなく、親だ。保育ママがいいと思う人もいれば、人間関係的なこと、時間的なこと(保育ママは原則5時までしか預からない)、施設の充実度で保育園を選びたい親もいる。専門の施設で、それを専門の仕事としている保母さんに見てもらう方が安心だし、実は子どもとのスキンシップの時間も長く取ってもらえる、という判断もある(私はそう思う)。
だから、教科書に準じる資料で、江戸川区の子育て制度が充実しているなどと書かれると、なんだかなー、と思う(確かに幼稚園児の家庭には助成は手厚いのだが)。それに、子育て支援のおかげで江戸川区の出生率が上昇していると関連づけるのは、いかがなものか。何かそれを証明できる資料に基づいているのだろうか。江戸川区の出生率が高いのは、サラリーマン(若い世帯)が取得しやすい手ごろな価格のマンションが、ほかの区よりも多いからだと私は思うのだが。
はっきり言って、事前に江戸川区の保育制度の実情を知っていたら、私はそこに引っ越さなかった。長男は港区で0歳時期を過ごした。それにくらべると次男の江戸川区での0歳時期は本当にたいへんだった。今でも、ワーキングマザーで江戸川区への転居を考えている方がいたら「止めた方がいい。少なくとも子どもが1歳過ぎてからにした方がいいよ」と言うだろうな、と思う。
一応、期限が週明けの月曜日なので、今日、行って来ました。
ほんとはもっと早く行けたはずなのに、原稿書いていたら忘れてました。
まあ、フリーで何が面倒って、税金のこととか、保険のこととか、自分でやるのが面倒くさい。会社員になって一番よかったのは、そういうことを会社がやってくれたことだと思っていた。そのためだけでも会社員を続けていてもいいと思っていたのに、何の因果か、また自分でやるはめに。
もっとも、昨年は収入が少ないので、書類を書くのも簡単。どうせ、全額、返ってくるしね。
すらすら書類を書き終えました。しかし、はんこを忘れたので、その場では提出できず、午後にまた届けに行くはめに。なんだかなあ。はんこって、何のためにいるんでしょうね。サインか拇印じゃだめなんだろうか、と思いつつ、行ってきます。
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今日は久しぶりに取材。
喫茶店での取材だったので、写真撮影は外で。新宿駅東口の紀伊國屋書店の裏手あたりで写真を撮りました。カメラマンさんが、「恥ずかしい思いをさせてすみません」と恐縮されていたが、自分自身は不思議と恥ずかしい、とは思わなかった。
なぜかと言ったら、結局、そういう仕事をしてきたからだろうね。取材する側として、観光地のど真ん中で作家さんの撮影をさせていただいたり、イベントなどで作家を守るためにファンの前に立ちふさがったり、冷静になって考えれば恥ずかしいこともたくさんやってきた。それが役割だと思えば、そういうことも平気でやってしまえるように仕事で訓練されてきたのだろう。
仕事に就く以前の私は相当な人見知りで、美容院に入って「こういう髪型にしてください」というのもちゃんと言えないくらいだった。それが、今では仕事となればたいていのことは平気である。普通の人は取材を受けるというと、何か凄いプレッシャーを感じたりもするのだろうけど、それもこなすべき役割と思っているので、あまり気にならない。編集者から作家に立場が替わっても、雑誌の仕事と思えばそれほど差異を感じないのである。
素の自分はあいかわらず人見知りだし、知らない店にもあまり入りたくない。だけどひとたび仕事仮面を被ってしまえば、いろんなことが平気だ。仕事というものはつくづく偉大だ、と思ったりするのだ。
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今朝、「とくダネ」を見ていたら、安全なママチャリの試作品を紹介していた。前輪が2つあったり、前輪の前に車椅子のようなものをつけてみたり。試作品だから、この通りになるわけではないだろうが、どれも大げさすぎる感じもする。日本の狭い道路状況、駐輪場状況からすれば、絶対無理な感じだし、そもそもお金もかかりそうだ。
もうちょっとお手軽に出来ないもんですかねえ。たとえば、後輪に補助輪をつけるとか。自転車に乗れないお子さんがやっているあれですよ。あれだけでも、かなり安全度が上がると思うが。
テレビとかの話を聞いていると、後輪ではなく、子どもの重みでハンドルが取られることの方を心配していたようだったので、だったら前輪に補助輪を付けて見るとか。
まあ、実際に試したわけでもないし、どれぐらいの安全性が確保されるのかはわからない。だけど、まずはその程度の改変ですむようでないと、現実に適用するのは難しいんじゃないだろうか(それだって、現実の駐輪場に置くのは難しい。だから、折りたたみ式の補助輪とか、そういう工夫をしなきゃいけないんだろうけど)。
みんながみんな、新しい自転車を買い換えられるわけではないし、狭い日本でうまく自転車を活用するには、コンパクトさも大事な要素だと思う。
あ、それからこの際だから、子どもにヘルメットの着用を義務づけるとか、子どもシート(前かごにも)に安全ベルトを設置するとか、そういうことも考えようよ。むしろそっちを制度化した方が、凝りすぎて実用に適さない自転車を押し付けるより、ずっと現実的ではないだろうか、と思ったりもするんですが、どうでしょうかね。
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自転車の3人乗りが許可される方向で検討されているらしい。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080304-00000042-mai-soci
私も、子どもが4歳と6歳になるまで、自転車の3人乗りをやっていました。
保育園まで大人の足で15分、つまり幼い子どもの足だと30分近くかかるのですよ。その頃は毎日、殺人的なスケジュールでしたから、たらたら歩いている時間はなかったですね。3人乗りしたからこそ、保育園の送り迎えも毎日なんとか乗り切れたと思う。
だけど、体験したからこそ言えるけど、正直、3人乗りは危ないよ。上の子が6歳にもなると、重みでハンドルが利かなくなったりする。横に曲がろうとしても、子どもの重みにハンドルが取られ、ずるずると横に倒れていったこともある。だから、警察庁が安定歩行できる自転車の開発を前提に、幼児を乗せることを許諾する方向で検討する、というのはとてもいいことだと思う。建前論が先行しがちな法規制において、現実と安全とを両立させようという珍しく前向きな判断が下されたと思う。
ただひとつ、気になるのは、6歳未満って、どういうこと?保育園は6歳児まで通うのだけど。6歳になったら、自分で乗り物に乗れってことなのかな? どうせだったら年齢ではなく、小学校入学以前の幼児にしてもらえないのでしょうか。>警察庁様。
私にはもう関係ないけど、現役のワーキングマザーのために、お願いします。
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1月後半から原稿を書いているとアドレナリン大放出。朝も5時に目が覚めてしまうというハイな状態が1ヶ月ばかり続いていた。
その状態の反動か、がっくり疲れが出る。遊ぼうと思っていたのに、友達に連絡取るのもめんどくさくなっていたり。というか、引きこもりの反動で、人に連絡取るのが怖くなっているのかも。それでも会ってしまえば、楽しくて、喫茶店で4時間くらいだべったりもしてるんですけどね。
そんなわけで鍼の予約を入れる。まだ直しの指示が来ないので、次の仕事にかかる気になれず、とりあえず、体調を整えようと思う。
今日は散歩がてら、家から歩いて10分ほどのところにある本屋さんに出掛けた。普段はもっと近い本屋さんか、反対方向にある300坪ほどの書店に行ってしまうので、ここまで来ることはあまりない。
そこで、ふと文庫売り場の一番奥、新潮文庫の海外文学の棚を眺めてみた。その途端、デジャブで頭がくらくらした。
ディケンズの茶色の背表紙、モームの紺と黄緑、シェークスピアのライトグレー、ヘッセのミントブルー、トルストイがブルーでドストエフスキーがグレー(逆だっけ?)そのほかジュネ、フォークナー、スタインベック、シリトーなどなど、中学高校の頃、近所の本屋で見ていた新潮文庫のラインナップがそのまま残っているではないか。ボーボワールの「第2の性」(完全版だが)やジュネの「泥棒日記」、「サキ短編集」まである。
こういった文庫がまだ絶版になっていないというのも驚きだが、それらが、20坪程度の書店の棚にちゃんと並んでいるのも驚きだ(よく見たら、キングとかアーヴィングとかクランシーとか、新しい作家もちゃんと並んではいたけれど)。
私の子どもの頃は、文庫に納められている作品はある程度、評価の定まった名作と相場が決まっていた。文庫自体の種類も少なかった。新潮とか角川、講談社とか、あとは創元推理とか早川とか。
その中でも新潮文庫は地方の書店にも強く、私の家の近くの15坪ほどのお店にも、ちゃんと並んでいたものだった。中学高校はおこづかいが限られていたし、むしろレコードにお金を使っていたので、本代に割ける金額は少なかった。当然、買えるのは文庫本くらい。わずかのお金を何に投資するか。今のように、本の情報を扱う雑誌やテレビ番組はなかったから、近所の本屋の店頭で、自分の直感で選ぶしかなかった。それで、真剣に、本当に目を皿のようにして文庫の棚を何度も何度も見詰めたものだった。
その時、眺めていたものと同じ本が、30年近く経ってもまだ置かれているというのは、感無量だ。それも、こんな小さな店で。売り場が小さければ小さいほど、売れ線の本を集中して置かなければならないので、こういった名作は置きにくい。この店でも売り場の目立つところにはスピリチュアル系とか、いまどきの売れ線が置かれている。だが、売り場の奥にそっとこうしたラインナップを揃えているのは、本屋の矜持というものだろう。それも、昔仕入れた本が残っちゃいましたという感じ(背が日に焼けているのでやる気のない本屋はすぐわかる)ではなく、ちゃんと棚に手を入れている。どれも新しい版のもので、なかには帯がついているものすらある。
嬉しくなって、ついディケンズとサキを購入しました。こういうお店は応援したい。近所にあるならなおさら。翻訳ものを買う時は、大型書店ではなく、このお店にまた来ようと思いました。
あいかわらず、家庭内のパソコン争奪戦に破れて、更新もままならない日々。
ですが、今年のお正月は本当に、何年ぶりかで穏やかに過ごすことができました。
おせち料理を作ったり、お笑い番組を見たりと、ありふれた日本の家庭のお正月ですが、ひとつひとつを楽しめました。
この穏やかな気持ちのまま、1年過ごせるといいな、と思います。
あけましておめでとうございます。
今年も皆様によいことがたくさんありますように。
そんなわけで、せっせと大掃除をしています。
掃除をすると、運が良くなるとかいいますが、その理由もちょっとわかるなあ。
掃除をして整理整頓をすると、たとえば無駄が発見される。甜面醤が、冷蔵庫と食品貯蔵棚と、調味料棚にあるとか。無いと思っていた片栗粉が、引き出しの隅から発見されるとか。
台所用品くらいだとたいした額でもないけど、たとえば無駄なキャッシュカードを解約するとか、銀行口座を解約することでの無駄は結構馬鹿にならない。整理整頓することで、金銭的な運が良くなることは確かですね。
金銭面だけでなく、整理整頓すれば、何かを探す、そうした時間も省ける。さらに、いらないものを抱えているという気分的な重さとか、自分の知らないスペースがうちの中にあるという落ち着きのなさが解消される。さらに、いつかここを綺麗にしなきゃ、という強迫観念からも自由になる。
その清清しいこと。
そうした小さなことの積み重ねが、物事をいい方向へと変えていくのではないか、と思います。掃除で運が良くなる、というのも、満更嘘ではない、と思います。
まあ、常に身奇麗にしている人にはわからないかもしれませんけど、なにせ忙しいことを口実に、掃除も、整理整頓もさぼりまくって幾星霜。我が家はいろいろ掃除のし甲斐があります。この掃除熱が盛り上がっている間に、頑張って家中を片付けよう。
片付いたら、きっと人を呼びたくなるだろうな。今までは人を呼ぶとなると、まず掃除しなきゃ、という脅迫観念でうんざりしていた。家が綺麗になれば、人を呼ぶことも億劫でなくなる。これで交際運もよくなる、というわけですね。
家中を片付けて、2008年はすっきりした気持ちで物事に取り組みたいと思います。
来年もよろしくお願いします。
そんなわけで、大掃除はもちろんやっていません。
クリスマスツリーも飾っていなけりゃ、正月の準備もまったくしていない。きっと、今年のおせちはデパ地下で適当に買ってすませるだろう。
現実生活のなんて面倒なこと。
なんて思いながら、昨日テレビを見ていたら、松居一代さんが出ていた。お掃除タレントでブレイクしている人だ。彼女の手にかかると、汚い部屋がどんどん片付いて行く。
うらやましいな。自分が出来ない分、生活能力の高い人を見ると、本当に感心する。
それに松居さんのいいところは、実に楽しそうに掃除をしているところだ。ああなると、むしろ家事というより趣味。そう、趣味だと思えば、家事も苦にならないのだろうか。
刺激されて、台所の排水口を掃除してみる。そういう部分はどこまで掃除をしていいのかよくわからなかったのだが、テレビで見たように排水口にかぶさっている蓋をはずしてみる。裏側を見ると、水垢の固まりがべろり。うわー、汚い。なんとなく排水口の周りが匂うような気がしていたが、これが原因だったのか。ごしごし洗って汚れを落とす。ついでにシンク周りも古ハブラシでこすってみる。どんどん綺麗になるので嬉しくなる。10分こすっただけで、シンク周りがすっきりした。
こんな風に思い立った時に、汚れた部分を手を掛けるといいんだろうな。掃除しなきゃ、と構えるから辛くなるんで。原稿書きに疲れた時に、ちょっと気分転換。そんなつもりでやるといいのだろう。会社員と違って家で仕事している分、ながらで家事をすることも可能だし。掃除が趣味、そんな風に思えるようになったらいいだろうなあ。などと汚い部屋を見回しながら思うことでした。
用があって郵便局に行ったら、すごい混雑で驚いた。
今さらだけど、年末なのね、と今年、初めて実感する。
家に篭って原稿書きをしていると、そういう現実感がどんどん薄れていく。
というか、どんどん現実のことがめんどくさくなっていく。どうでもよくなっていく。小説を書いている間は、頭が別の世界に行ってるので、まともに生きている感じがしない。そうなって初めて作品に集中できているということなので、仕事的には悪いことではない。
とはいえ、主婦なので、夕方になるとご飯の支度が待っている。掃除はさぼりがちとはいえ、食器洗い、ゴミだしや洗濯、アイロン掛けは毎日ある。めんどうというより、そのために集中が途切れるのが辛い。原稿書きが辛いのは、集中を持続し続けることなので、一度集中したら出来るだけ長く持たせたい。それが出来ないのが辛い。結果、原稿も家事も中途半端になっている気がしてしんどい。
まあ、これははるか昔から既婚の女性作家の共通の悩みではあるんですけどね。田辺聖子さんも、家事をしなくてもいい男性作家がうらやましいという様な事を、冗談まじりにエッセイに書かれている。
作家の中には、どこかにカンヅメになってホテルや旅館に篭る人もいる。現実生活から自分を切り離し、小説に没頭するためだ。村上春樹さんなどは執筆期間は日本を脱出するそうだ。優雅だなあ。
パリの小さなホテルを借りて執筆三昧。疲れたら異国の地を気ままに散策する。馴染みのカフェが出来て、毎日そこを訪れていると、お店の人とも親しくなって声を掛けられる。
「あなたはここで何をしているんですか」
「原稿を書くために、しばらく滞在しているんですよ。日本は賑やか過ぎて仕事にならないんでね」
なあんてね。いいなあ、そんな生活。
なんて夢想しているうちに、今週末からは息子たちも冬休み。今年こそは冬休みと原稿書きの時期を重ねないように、と思っていたのに、やっぱり駄目だった。子どもの長期休みに仕事をするのはとても苦しく、ことに冬休みはクリスマスだ、正月だで世間的にも浮かれる時期。抵抗して原稿書きに没頭するのは不可能に近い。今からあきらめモードに入りつつある。その期間休むと、調子戻すのに時間かかるだろうなー、やれやれ。
まあ、今回乗り切れば、来年はもうちょっとメリハリつけたスケジュールだてができるはず。春、夏、冬は、原稿書きのピークと重ねない。少なくとも、冬休みは休む。世間様に歩調を合わせて楽しく過ごす。それを励みに、今回はとにかく乗り切らなきゃ。
昨日の朝、新聞のテレビ欄を見ていたら「王様のブランチ」の中に「犬養裕美子おすすめ、この冬食べたいおでん」とある。実はちょっと前からこの犬養裕美子さんという名前に引っかかっていた。昔の仕事仲間じゃないかな。
それで番組を見て確かめてみました。やっぱりそうでしたねー。
大学卒業して初めてかかわった雑誌、フリーライターとしての私の出発点は情報誌「アングル」。「東京ウォーカー」の元祖みたいなタウン誌で、町やお店の情報を中心にした月刊誌だった。その編集部に犬養さんもライターとして在籍されていたのである。確か年もかわらないと思うのだけど、犬養さんは学生時代から仕事をされていて、すでにムック1冊を仕切るくらいの活躍をされていた。私も2,3度、犬養さんの下で、スイーツの取材などさせていただいた。その頃、犬養さんに
「どうしてこの仕事を選んだのですか?」
と聞いたことがある。犬養さんは
「昔から自分でお店を探して、どこの店にこんないいものがあるよ、ってみんなに教えてあげるのが好きだったの。それの延長みたいなものね」
というようなことをおっしゃった。私は、お店の取材はあまり好きではなかったので、犬養さんの発言にちょっと感動した。こういう人が、情報誌に向いている人なんだな、と思った。
その後、私はアニメ雑誌の仕事が忙しくなり、情報誌からは離れてしまった。それにはいろいろ経緯もあるが、お店の取材よりも何かを作る舞台裏を取材する方が自分にはあっている、と思ったのだ(アニメがとくに好きというわけではなかった)。その頃はあまり意識はしてなかったけれど、犬養さんのなにげない言葉に、知らないうちに触発されていたのかもしれない。あの時の言葉をいまだに覚えているというのは、そういうことなんじゃないだろうか。
テレビで元気に活躍される犬養さんの姿を見ながら、そんなことを思っていました。
ここのところ、やたら食品の期限表示の偽造が問題になっている。その騒動を見て、賞味期限についてはずいぶん誤解されているんだな、と思った。
実際のところ、賞味期限というのは「美味しく食べられる」ことをメーカーが保障する期限であって、多少風味が落ちたり、堅くなってもかまわないのであれば、期限を多少過ぎても食べることは可能だ。というか、メーカー側は絶対安全な日にちを設定しているので、1日は2日、期限を過ぎたからって、まったくと言っていいほど食品に影響がない場合が多い。だいたい、保存の仕方は人それぞれなので、一律にこの日までが安全などと設定できるわけがない。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071129-00000141-san-soci
しかし、賞味期限を絶対視し、それを過ぎたら食品を捨てるという人も少なくないらしい。賞味期限でなく消費期限になるが、肉の消費期限が1日でも過ぎたら捨ててしまうと言う人も、ある調査では20%近くもいる、という。驚いた話だ。
実際のところ、クレジットされている日にちは目安でしかない。今回の騒動でわかるように、どのように偽造されているかわからないのだ。そんなことよりも、匂いや手触り、味といった感覚で判断する方がはるかにあてになる。私自身は、肉なら消費期限の1週間先くらいは平気で食べる。少々、堅くなったりするし、その場合は意識的に火をよく通すが、それで自分や家族の体調が悪くなったことは1度もない。
実際のところ、賞味期限だの消費期限を煩く言うのは、料理にあまり関心が無い人の方が多いのではないか、と思う。それでなければ、非常に潔癖な性格なのか。うちでも、料理をしない息子達の方が、賞味期限に関して煩く言う。だが、日々食品を触っていれば、食品の傷み具合がわかるし、これくらいなら大丈夫というカンも磨かれてくる。だいたい経済的なことを考えれば、1日や2日、期限が過ぎた食品だって使わない手はないだろう。
現在の偽造騒動も、だからずいぶんおかしな話だと思う。偽造した人たちは、偽造してもばれない、つまり日にちが過ぎても見た目も味も変らないことを経験的に知っていたということだ。それって、つまり賞味期限の設定基準が厳しすぎたとも言えるのではないだろうか。
もちろん、だからといって偽造していいことにはならないし、違反したことについては罰せらるべきだと思う。彼らを擁護するつもりはまったくない。
だが一方で、賞味期限を守るために、まだ食べられる食品を捨ててしまうことの資源の無駄遣いの責任は誰が取るのだろうか、と思う。地球規模で言えば、今この瞬間にも餓死する人が絶えないのに、なんて無駄なことをやっているのだろう。日本では捨てられる食品でも、場所によっては大歓迎されるだろうに。ちまたではロハスが大流行だが、地球にまったくやさしくないこの騒動を見ていると、気持ちが暗くなる。こうした風潮へのせめてもの抵抗は、使える食品をなるべく無駄なく使い切る努力をすることくらいだと思って、せっせと冷蔵庫の中身をチェックする今日この頃だ。
ここのところ、すぐ寝込む。だるかったり、頭痛だったり、首痛だったり。
昔も休みになると寝込んでいたが、仕事のストレスだから仕方ない、と思っていた。しかし、ストレスの減った今でも改善しないのはなぜなのか。
健康本など読むと、冷えが原因らしい。たしかに平熱は35度台だし、足先はいつも冷たい。会社勤めしていた頃よりも運動をしなくなったことも、熱が上がらない要因になっているらしい。
そう思ってジョギングをすれば、腰を痛めるし。腰を痛めたために、何をするにも億劫になり、ますます熱が上がらない。そういった悪循環に落ち込んでいる。
とりあえず、冷えを直そう。本格的な冬が来る前に手を打たなければ、ますます症状は悪化するし。そうなると、何も出来なくなるし。
そう思ってホカロンを買って、肩と腰に貼っている。即物的だが、まずそこから。あとは食事療法で体質改善を図る。軽い運動を始める。アルコールは控える。
とにかく寝込まない身体がほしい。
やりたいと思うことをやれる体力がほしい。
毎日快適に過ごしたい。
そう思う毎日である。
反響も少しづつ。
高校時代の友人から、面白かったとメールを貰った。実は若い方の主人公の夫の名前、伸光というのはこの友人のダンナ様から拝借していたこともあり、よかったと言われてほっとする。明るくてノリがいいというのも、ダンナ様に似ているのだそうで。書き始めた時はとくに伸光がどんなキャラクターなのかをイメージしておらず、書いてみたらああいう風になった。これは名前の影響を受けたのかもしれない、と思ったりして。
さらに嬉しかったのは、取材をした書店員さんのひとりからわざわざメールをいただいたこと。性格ではなく、仕事の姿勢において、主人公のひとり(ベテランの方)は確実にこの方の影響を受けている。この方には取材の際、いろいろ興味深いお話を伺った。ことに、OA導入によって書店の現場は劇的に変ったが、それ以前を知っている人間には逆にそれに頼りすぎることの危惧もある。そういう話がとても印象に残った。私自身も同世代として仕事の現場で同じようなことを思っていたからだ。それで、若い方から見れば頑なに見える主人公の行動の裏に、そういう思いがあるのだ、という含みを小説で持たせたつもりだが、それはどれくらい伝わっただろうか。
まあ、エンタテインメントとして楽しんでもらえればそれでいいので、伝わらなくてもかまわないのだが、少なくともこの書店員さんにはわかってもらえた、と思う。それはちょっと嬉しい。
そんなこんな、いろいろ感想を貰って感慨にふける。本を出して一番楽しいのはこういう時期だ。
この時期は結構、気を揉む。
反響がほとんどないからだ。友達でさえ、まだ本を読んでなかったりする時期だし。
前回は、事前にHPを作った関係で、10人以上の方に感想を送ってもらった。それで、発売前にはどんな読まれ方をされるのかがわかっていたのだが、今回はそうではない(もちろん、それが普通なんですけど)。
それに、今回は書店員さんにどう読まれるかがとても気になる。前作は自分自身の所属した編集の世界を描いたものだったので、編集者の反応は気にしなかった。多少の違いはあっても、編集部というものはあんなものだ、という絶対の自信があったからだ。
だが、今回はどうだろうか。
どうやら、案じていたような「書店でこれはありえない」というような否定論はなさそうだ。
だが、逆に「リアルすぎて読みたくない」と言う書店員さんもいるらしい。
本物の書店員さんに「リアル」と言っていただけるのは本望ではあるが、一方で、こちらとしてはエンタテインメントを書いたつもりなんだけどなあ、とうじうじしたりもして。
そんなわけで落ち着かない毎日だったりもするが、今日、新潮社から手紙が転送されてきた。執筆前に取材をさせていただいた、元書店員さんからの手紙だ。
彼女は小説をとても好意的に捉えてくださって「この本は、書店員に対するエールですね」と書いてくださった。私ごときがエールを送るなどとはおこがましいと思うが、厳しい状況で戦っている書店員さんたちに頑張ってほしいという思いがあって書いたのは確かだ。だから、それを素直に受け取ってくださったのは、とても嬉しい。また、わざわざそれを手紙で伝えてくださった気持ちも嬉しい。
本を出すという行為は、闇に向かってボールを投げるようなものだ。投げたボールがどうなるか、投げた当人にもわからない。しかし、こうして想いを返してくださる方がいると、出してよかったな、としみじみ思うのである。
ベネッセから「bizmam」という雑誌が出ているのをご存知だろうか。
bizmamというのは、ビジネスとママを組み合わせた造語。つまり、ワーキングマザーを読者対象とした雑誌だ。私が書いた小説「辞めない理由」で、主人公の和美が創ったのは、きっとこんな雑誌だったに違いない。
bizmamの創刊は私の小説が出る少し前だったが、この雑誌を見たから私が小説を書いたわけではない(創刊された時には、すでに小説の第2稿が出来上がっていた)。しかし、私自身が「日本にワーキングマザーのための雑誌があればいいのに」と思っていたのと同じことを、同じくらいの時期に考えていた人がいたのだろう、と思う。だから、現実にこういう雑誌があることを嬉しく思うし、頑張ってほしいと思っていた。
最初は不定期刊行だったbizmamが、この秋から季刊としてスタートすることになった。その号で私の小説の紹介をしてくださった縁で、先週行われた創刊記念パーティにご招待され、ご挨拶をさせていただいた。
いろいろな方々とお会いできて楽しかったが、パーティに集まったワーキングマザーたちが、若くて綺麗なことがとても印象的だった。ワーキングマザーといえば、髪振り乱して忙しく働いているというイメージが強い(私自身はそうだったのだが)、最近は変ってきているのだなあ、と感嘆した。ファザー連れ(もちろん子どもも)も多く、若い層ほど夫婦で積極的に育児に参加しているのだろう、ということも実感した。
編集長はじめスタッフにもワーキングマザーが多く、自分たちの読みたい雑誌を自分たちで作るという気概にあふれていて頼もしかった。和美の編集部もきっとこんな風だったのではないだろうか。
スタッフの方に話を聞くと、雑誌の編集中に、小説と同じような事態が起こったり、同じようなことが問題になったりしたそうで、リアルに「辞めない理由」の(後半の)日常を送っているらしい。雑誌の現場から離れた身としては、それが少し羨ましくもあるが、作家としては、小説がそれだけリアルに描けていたのだ、と嬉しく思う。
そんなわけで、これからもこの雑誌がどのように成長していくか、非常に楽しみである。小説にも書いたが、こうした雑誌がワーキングマザーの実情を世間に認知させることになるし、ワーキングマザー同士が結びつくきっかけになると思う。今は雑誌にとってとても厳しい時代だが、志のある雑誌でもあるし、息長く頑張ってほしいと思う。
予想どおり、マスコミで安倍叩きが始まっています。
まあ、首相の悪いところはいろいろ出ているので、ひとつだけ私が安倍首相を評価した点を書こう。
造反議員の復党を許可したところだ。
そこだけは、ちょっといい、と思った。
造反議員の追放というのは、実に嫌な事件だ。私自身は郵政民営化の問題自体を語るほど詳しくもないし、意見もない。しかし、それを決議するに当たって起こった一連の騒動は、ここ数年、政治をめぐるさまざまな出来事のなかでも最も嫌な事件だと思う。
郵政民営化を支持しない、それだけの理由で自民党を除名。
それを聞いた時は、なんだ、そりゃ、と思った。党議拘束に反するというが、これではまるで女のイジメだ。政治家にはいろいろな支持母体があり、それぞれの立場の利害を代表している。自民党議員といえど、簡単に支持できないこともあるだろう。まあ、郵政に関してはある種の政治家の利害と密接に結びついていて、だからこそ改革をしたかった、ということなのだろう。だが、そういう議員も含めての議会だし、政党だ。実際、反対ではなく、もう少し審議しようと提案した人まで問答無用に切り捨てる必要があったのか。さらに、刺客(この言葉自体、なんだ、と思いますよ)を送って彼らの再選すら阻む。彼らが政治家であり続けることすら否定しようとする。なんていじましくて、嫌らしいやり方だろう、と呆れた。
総理に反対する者は絶対に許さない。反対の意見さえ言うことは許さない。話し合うことさえ認めない。これは強いリーダーシップという範疇を超えて独裁者の態度だ。民主国家のやり方ではない。まだ今回は郵政民営化ですんだからいいようなものの、同じようなことを憲法改正とか、さらに重要な案件でやられたら、たまったもんじゃない。右傾化への足音が聞えるようだ。
だから、安倍首相が条件付きながら、造反議員と言われた人の復党を認めた時は、正直ほっとしました。この人は少なくとも独裁者ではないな、と。もっとも、この行為も安倍首相のKYなことのひとつとして、散々悪く言われましたけどね。
まあ、そんなKYな行為の連続で、自民党の独裁化にストップを掛けた。私は自民党に限らず民主党でも、一党独裁は危ういと思うので、もしかしてこれが一番の安倍元首相の功績なのかもしれないな、と思いました。
関係ないけど、突然なので驚きました。
安倍首相がとくに嫌いなわけではないけど、なぜ今になって辞めるのだろうか。選挙直後に辞めていれば、勇退と言う人もいただろうに。
茨の道を覚悟で続投を決めたんじゃなかったのかなあ。
嫌いな言葉だが「場の空気が読めない人」という言葉が安倍首相には合っている気がする。選挙直後には「辞めろ」と言っていた人たちも、新内閣が発足して、じゃあもうちょっと見てみるか、と思っていた矢先だっただろうし。今辞めたらいろんなこと全部、中途半端なまま。国会の審議も始まったばかりなのに戦わずして逃亡ってわけで、反発くらうのは必至なのに。
前任者の小泉首相は意固地でマイペースなようでいて、実は「空気を読む」嗅覚がものすごく鋭かったので、余計目立ちますね。
それにしても、また内閣総入れ替えなのだろうか。大臣の人たちもたいへんですね。
私のパソコン歴は20年以上になる。今ではパソコンがなければ仕事にならない。手書きの原稿より、パソコンで書いた方がずっと早い。
だが、キーボードを打つことがちょっとばかり早くできるからといって、パソコンの使い方に習熟したわけではない。必要最低限のことしか覚えてないから、ちょっと変ったことが起こると、もうお手上げだ。
昨日、何かの拍子でキーボードを押し間違えたらしく、突然、ローマ字入力からかな入力に切り替わってしまった。夫か息子がいれば任せるのだが、昼間なので誰もいない。取扱説明書を見ても、ちっともわからない。どうしたらいいのだろう。まだ午前中も早い時間なのに、ここで仕事を中断しなければならないのか。1日無駄になるじゃん。
ヒステリーを起しそうになったところで、ふと、NECのサポートセンターに電話して聞こう、と思いついた。それで、連絡先を調べるためにNECのHPを見たら、操作法についてのよくある問い合わせとその対処法が掲載されているではないか。
そこから検索して、入力切替のやり方を見つけ、なんとか元に戻すことに成功した。
やれやれだ。
たったこれだけのことなのに、どっと疲れた。
こんなことさえ出来ないのに、よくまあパソコン使って仕事してるよ、と自分で思う。それに、サポートセンターのHPで対処法を探そうという発想がないあたりが、パソコンを使いこなしてない証拠だ。
しかし、だからといってパソコンに習熟しようという気はさらさらない。最低限のことが出来ればいいや、と思っているし、必要以上の時間をパソコンに費やしたくない。そう強く思うのは、メカに対する苦手意識からなのか。単にものぐさだからなのか。
まあ、そんな根性だから、20年パソコンを触っても、ワープロ以上の機能を使えないでいるんですけどね。
この夏の新潮文庫のフェア特典はやられたなあ。ハワイのパッチワーク風の絵柄のブックカバー。すごく可愛い。ハワイ好きとしては心くすぐられるアイテムだ。しかも、文庫2冊で全員プレゼント。いつもなら景品目当てで本を買ったりはしないが、今回ばかりはなんとかしなきゃ、と思う。
問題なのは、欲しい本がないことだ。新潮文庫で欲しいものはすでに持っている。なんのかんの言っても、やっぱり一番書棚に多い文庫だもんね。何度も何度もフェアアイテムをチェックして、ようやく1冊選ぶ。上橋菜穂子さんの「精霊の守り人」。前から読もうと思いつつ、ファンタジーを読むテンションになれなくて買わずにいたもの。これなら、積んどけばいつかは読むだろう。だけど、もう1冊が選べない。結局、信玄好き(ゲームの影響です)の息子に無理やり「風林火山」を買わせて(というか買ってやって)応募権を2枚集める。これでとりあえずブックカバー1枚ゲットだ。
だけど、どうせなら色違いが欲しいな。青系1枚と赤系1枚あると嬉しいなあ。しかし、買いたい本がない。どうしよう。
「だから、フェアには安い古典も入っているんだよ」
と、夫が言う。2冊でプレゼントがもらえるというフェアの時、一番値段の安い古典がやたら売れるんだそうだ。だけど、この年になると、どんなに安い本でもいらないものはいらない。絶対に読まないと思うから。
そんなわけで、悩んでいるうちに、フェアが終わってしまった(応募はまだ締め切っていないが)。そうして今度は別の文庫が書店の棚を占拠している。9月フェアの文庫だ。うっかり欲しくなると困るので、フェアアイテムが何かは確認していない。
息子の高校受験のため、学校訪問を始めた。
昔と違って、今は高校入試もめんどくさい。
私の時代は進学希望者全員(おそらく、市内の中学生のほとんど)が同じ業者テストを受けて、その偏差値と内申書を見て、担任の先生と相談して志望校を決めたものだった。ほぼ全員が受けているから、偏差値の信用性も高い。先生が「ここなら大丈夫でしょう」と言ってくれるところを受ければまず間違いはない。どこの中学もそうして受験校を決めていたから、倍率も極端な差はなく、私自身も受けた学校は1.05倍とか、そんなものだった。つまり、落ちるのは、当日よっぽど体調が悪いか、ダメもとで実力以上の学校を受けたか、そのどちらかだったのだ。
そんな具合だから、親の出番はあまりなく、事前に学校訪問をすることもなかった。うちの親にしても、合格したあとの入学式で初めて私の受験した学校に来たと思う。
今は業者テストを参考にすることは公立ではよくないとされているし、子どもの受けたい学校を受けさせるべきという考え方なので、志望校も本人が探さなければならない。まあ、選ぶのも落ちるのも自己責任というわけだ。
おまけに、受験の科目も私立の場合は学校によって異なるし、推薦で決まることも多いのだ。推薦の場合は第一志望であるとか、熱意を示すと推薦の基準が下がる場合もあるという。
東京の場合はやたらにいろんな学校があるから、選ぶのもたいへんだ。中学は事前にできるだけ多くの下見をするように、と奨めている。ことに、本命となる学校へは、2度3度行け、と言われる。それも、本人だけでなく、親もいっしょに見て回った方がいい場合が多い。ことに推薦を狙うとなると、事前の話し合いでいろいろ条件を考慮してもらえる場合があるので、親も同伴が必須だ。
そんなわけで、夏から秋にかけては、いろいろ下見に行かなければならない。自分自身が高校受験で親を煩わせたことがあまりなかったと思うので、なんだかなあ、と思う。業者テストも、自分自身で探して受けなければ行けないし、学校を選ぶ基準もよくわからないので、結局は塾に頼ることになる。公立の先生ははっきり言ってくれないので、あまりあてにできないのだ。
結局、業者テストを公立中学で参考にしなくなったことで、かえって受験業者に生徒が頼らざるをえない状況を作り出している。そうして、そういうところで、親の経済力の格差が出てくるわけだ。まったくやれやれだ。学校にお任せしておけば安心、と思われていた時代がつくづく羨ましいと思う。
最近のニュースを見ると心塞ぐことが多いですね。
未成年だから、母親の愛情を知らないから、犯罪が許されるというものでもなかろうに。
片親でも、両方の親がいなくても、ちゃんと育っている人間の方が多いですよ。
言ってる内容の辻褄があっていないというだけでなく、光市母子殺害事件のニュースを見ていて心塞ぐのは、弁護団が自分の作ったストーリーにこの事件を当てはめようとしているように見えるということだ。死刑廃止論、少年犯罪の厳罰化に対する抗議を訴える手段として、これを選んだようにしか見えないのだ。まあ、荒唐無稽な話しであるが、今の少年の発言がすべて事実であるという可能性もないわけではないので、それはこちらの思い込みかもしれないが。
しかし、弁護団は自分たちの理論を優先しようとするあまり、肝心なことを忘れていないか。本来、少年犯罪が通常の犯罪とは違う審理を受け、保護されてきたのは、彼らの更生を促がすためだ。そして更生をさせるためには、まずやったことに対する反省が最初にあるべきだろう。今のように、理由があれば犯罪も仕方ないんだ、と言わんばかりの発言をさせて、それが少年の更生に繋がるのだろうか。理由はどうであれ、罪の無いふたりもの人間の命を奪ったことは事実なのだ。仮にこれで罪が軽くなるようであれば、結局、言い方次第でなんとでもなる、という誤った概念を、少年本人だけでなく、ほかの少年たちにも植え付けるのではないか。
被害者の親族の発言によれば、1審2審では聞かれた謝罪の言葉が今回は聞かれなかったという。大人の裁判であればそれが弁護側のテクニック(罪を認めないのだから謝る必要はない)ということなのだろうが、今回の場合は少年犯罪だ。少年の更生の可能性を探るための裁判だ(そうでなかったら、とっくに死刑でけりがついているだろう)。
罪は減じられたとしても(まあ、それは無いと思うけど)、少年は更生からいっそう遠のいたように思える。それがもし弁護団のやったことの結果だとしたら、あまりにもお寒い話しではないだろうか。
こうして見ると、字面は綺麗ですね。夏風邪。
しかし、悩まされています。
すごい咳。それ以外は身体がだるかったりするくらいでたいした症状ではないのだけど。
夜とか朝方の方が咳がひどい。というか、布団に入るとひどくなる気がする。頭を地面に近づけると、埃が気管に入ったりするからなのでしょうか。夜もそれでなかなか寝付けないし、夜中も目が覚めてしまうし。
そんな状態がもう1週間も続いている。先週はだらだら過ごしていたけど、そんな状態を続けるわけにもいかないし、少しずつ普通の生活に戻しているところ。
昨日は前売りを買って楽しみにしていた歌舞伎の「十二夜」だったので、咳を気にしながらも出掛けました。幸い、ドアのすぐ横の席だったので、あまりひどいようだったら、いつでも廊下に出られると思ったのですが。
お芝居始まったら、面白くて席を立てませんね。1幕目の途中ですごく咳き込んだんだけど、舞台がいいシーンだし、タオルを口に当てて音が漏れないようにして見ていました。そうしたらタオルの毛羽が喉を刺激したのか、ますます咳がひどくなり、終いには吐き気も襲ってきて。幸い舞台は嵐のシーンだったので、げほげほしていてもあまり迷惑にならなかったと思うのですが、散々でした。素直に廊下に出ればよかった。周りにいた人、すみませんでした。
夏風邪は長引くというけれど、いい加減、うんざり。薬や医者にはあまり頼らないようにしているけど、さすがに薬くらいは呑んだ方がいいのだろうか、と考えている。
今月は友達運が上昇する月のようだ。
友達と金沢にボランティアに出かけたり、PTA活動をしたり。飲み会の誘いもいくつかあったし、自宅に友達が遊びに来たり、泊めてくれと頼まれたり。ここのところ篭りがちな日々だったのが、今月はいろいろと忙しい。
加えて、舞台のお誘いも頂いている。毎月の歌舞伎鑑賞に加えて、美輪明宏のコンサートのチケットを取っていただいたり、ENDLICHERI☆ENDLICHERI(これは残念ながら行けなかったのだが)のコンサートに声を掛けていただいたり、歌舞伎の舞台に行けなくなった友人からチケットをいただいたり。昨日は昔の会社の上司から、フィギュアスケートのチケットを売っていただくことになった(しかもかなりいい席)。
会社を辞めた直後は、それまでの人間関係がばっさり切れたし、昔からの友達とも縁遠くなっていたしで、ちょっと寂しい状態だった。ここに来ていろいろお誘いを受けるのは、新しい人間関係がようやく出来てきたり、昔の友達との関係も少しずつ戻ってきたということだろうか。
そんなわけで、楽しい毎日なのだが、唯一問題なのは金銭面だけ。昔はお金はあったけど時間がなかった。今は時間があるけどお金が。友達に声を掛けられた時、いつでも動けるくらいのお金は稼ぎたいものですね。とりあえず、それを励みに頑張って仕事しよう。
ボランティアイベント「ハートエクスポ2007石川」が先週末、無事終了した。
海外や国内各地から集まったスタッフ、関係者だけで200人。これだけの人数が、アジアの子ども達の力になりたいと、手弁当で働くのだからすごい。日本は荒んだというけれど、まだまだ温かい気持ちの人がたくさんいるし、機会があれば善意を行動で示したいと思う人も少なくないと思う。
スタッフの中には、1ヶ月前から現地に入り、いろいろ準備に専念していた人もいる。本業でもミュージシャンや舞台の制作をしている人たちが、プロならではの技を駆使して舞台を作ったりもしていた。そういう人たちに比べれば私は家族もいるから長期間家を空けられないし、たいしたことは出来そうにない。私の場合、得意なのは文章を書くことや、編集することなので、リアルなイベントとは関係がない。不器用でものを作るのは苦手だし、非力で力仕事も向かないし。始まるまではそう思っていた。
だけど、当日になって、小学生の男の子たち10人近くの面倒を誰かがみなければならなくなり、それを引き受けることにした。独身の人たちは、小学校3年、4年のちびっ子ギャングたちを扱いあぐねていたらしい。そのことで、感謝された。自分ではあまり意識していなかったのだが、これも子どもを育てたことで身についた技術なんだなあ、と嬉しくなった。
さらに、出来る範囲で、出来ることをやればいいんだ、とも思った。ボランティアに一生懸命なることも大事だけ