ドキュメンタリーは嘘をつく

ある方に、次回作の参考になるかも、と奨められて読んだ本。
面白かった。
映像において、公正中立の視点などない。
すべてのドキュメンタリーはフィクションである。
著者自身、映像作家であるからこそ言える言葉。でも、そうなんじゃないか、と私も大いに納得しました。

映像と同様、書くという行為においても、実は小説よりもエッセイとかノンフィクションの方が、著者がどういう人間なのか、わかるのではないか、と思っている。実のところ、ノンフィクションといっても、現実をすべて写し取れるわけではない。描く対象に何を選ぶか、それをどう切り取るか。そこに、その著者の価値観なり、人柄なりが現れる。
普通に考えれば、すべてが作家の創造物であるところの小説の方が作家の人となりが伝わりそうなのだが、そうではない、と実作者である私は思う。小説の場合、登場人物が複数である分、複眼の見方を入れなければならないし、物語の必要上、作家の思想と異なることでも入れることがある。どこまでが作家の本音かわからない。だからこそ、私自身も小説を書いているのだ、と思う。

まあ、小説の場合、最初から嘘の話と読者も納得づくで読むわけだけど、ノンフィクションだとそうはいかない。ことに映像であれば、観る側もすべてが真実だと信じたがる。だが、真実など、実に抽象的なものだ。黒澤明の「羅生門」のようなものだ、と私は思っているのだけど。
最近はとみに、絶対的な善とか悪とか、世間様が求めすぎているような気がします。どんなものごとも、絶対などということはない。そんなにわかりやすかったら、世界はもっと単純だし、おそらく小説は役割を失うだろう。
善悪とか簡単に割り切れないもの、世間的な価値観から零れ落ちてしまうもの、それを描くのが小説というものではないか、と思ったりする今日この頃。

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「たぶん最後の御挨拶」

うちのマンションでは、月2回廃品回収がある。その時、不要になった本も指定された場所に出すことができる。そこに出された本は、誰でも自由に持っていってよい。時々、そこに掘り出しものもあるので毎回チェックしているのだが、今回はよかった。村上春樹さんの本がごっそり。それに今野敏さんや仙川環さん、東野圭吾さん、なぜか米原万理さんの本などもあったりして。それもほとんどが文庫で保存状態もよい。ほくほくしながら、15冊ばかり(それでも半分は残した)持って帰った。

とはいうものの今は資料本を読んでいるので、小説は読めない。それで東野圭吾さんのエッセイ「たぶん最後の御挨拶」に目を通した。
いろいろ興味深いエッセイだった。東野さんは理系なので、考え方が論理的だ。それに自分なりのルールみたいなもの(美学というべきか)もある。
なかでも感銘を受けたのは、
「自分の作品を読者がどのように誤解して読んでも文句はいわない。誤解されたのは自分の書き方が悪いか、あるいはその読者との相性が悪かったせいだと思うからだ。作家の中には、「読み方が悪い」とか「そういう読み方はされたくない」とかいう人も時々いるが、それもまたルール違反というものだろう」
というくだり。
自分が作家になって感想を言われる立場になると、「いや、そんなつもりで書いたんじゃないんだけど」と言いたくなることもたびたびある。そういうことについて、当の作家はなかなか穏やかではいられないものだ。東野さんのようにすっぱり割る切れるというのは、実はすごいことだと思う。

ことに東野さんについては、人気作家だけにいろいろ話題になることも多い。実はその代表作とも言うべき「容疑者Xの献身」が、「本格ミステリか否か」ということで一部ミステリ関係者の間で大論争になったことがある。私は門外漢なので詳しくは知らないが、高名な作家や評論家たちの間で相当激しいやりとりが交わされたらしい。
しかし、当の東野さん自身は、その論争には加わらなかったという。普通の読者の間でかわされた話ならともかく、同業者たちの間での論争で、その一部は雑誌にも掲載されたそうだから、東野さんだって知らないはずはない。相当、複雑な心境だったのではないかと思う。だが、あえて何も発言されなかったのは、上記のような自分なりのルールに従ったからだったのだな、と今になって思う。

実にかっこいい。
作家は作品ですべてを語るべきで、それ以外のところで作品を理解してもらおうというのは甘えであり、言い訳にしか過ぎない、そういうことだ。
そういう覚悟がなければ、プロとしては未熟なのだろう。東野さんはそれを建前でなく実行されている。20年以上も第一線で活躍している人のすごさというのは、こういうものだと思う。私も見習わなければ、と思いました。

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黒笑小説

東野圭吾さんの「黒笑小説」、文庫が出たので買ってみた。
短編集だけど、文壇をネタにしたブラックジョークもいくつか収録されていると聞いていたので。

東野さんはよくもまあ、編集者の打算や作家の自意識を冷静に書けるものだな、と思いました。私自身は作家といっても、長く編集者をしていたので、普通の作家よりは業界のことを知っている。だから、どの辺までがありそうな話で、どこからはありえない話ということもわかってはいるんだけど。小説では徹底的に悪く書かれる編集者も、実はそこまでは割り切っている人ばかりでもないことも知っているんだけど、ね。
冗談めかした中に、かなりの真実が入っているところが、キツイ。いえ、短編としてはもちろんとても面白いものにはなっているんですけどね。自分が作家になってしまうと、身につまされることも多くて。そういうことを、ブラックジョークに持っていけるところはさすがの東野さんだと思いますが。

解説の奥田英朗さんの文章がまたすごくよくって。短いものだけど、これだけでも読む価値がある。奥田さんにしか書けない解説だと思います。

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星新一 1001話をつくった人

遅ればせながら読了。

星新一は我々世代が中学、高校の頃、圧倒的に人気があった作家。私も夢中で読んだひとりだが、それ以上に、私にとって星さんというのは「ショートショートコンテスト」の審査員という意味で思いいれがある。私の小説デビューは、このコンテストの佳作(全国公募の最後の年で、本にも掲載されている)だからだ。

昔の話しなので、なぜこれに応募したのか、さっぱり覚えていない。初めて書いた作品で、ビギナーズラッキーだったと思う。で、これで自信を持ったかというとそうではなく、逆に2作目3作目が書けなくて、「自分は小説には向いていない」ということを思い知らされたのである(まあ、それで小説家になることは綺麗に諦めて、それより自分に向いていると思う編集者になることにしたのですが)。
だって、ショートショートコンテスト出身の私としては、「プロの作家というものはこういうものだ」という見本がほかならぬ星さんだったわけ。しかし、星さんというのはその当時でもすでに超人的な量を発表しており、到底、自分は星さんみたいなことは出来ないと思いました。
今にして思えば、星さんを目標にするということは、いきなり素人がエベレスト登頂を目指すようなもので、無理と思うのが当たり前。同じ山でもまず高尾山くらいを目標にすればよかったんですけどね。

そんな風に尊敬する作家でありながら、人間星新一のことはあまり知らなかった。彼の作品を読むうえでは、それでいい、と思っていたし。
だから、この本を読んで、星さんという人がいかに特異な経歴と資質を持っていたのかを初めて知った(製薬会社の跡取りであることくらいは知っていましたが)。一見、ドライで都会的な文章の裏側で、どれだけの苦しい思い、複雑な感情を抱いていたのか。望まずして作家になって、だけど、書くことでおそらく救われもしたろうし、金銭的な成功も得ただろう。と同時に、作り手の苦しみを嫌というほど味わう。さらに、晩年には父の過去の過ちも知らされることになる。書くことで父の汚名を雪ぎたいということも星さんのなかにはあったはずなので、この事実はどれほどの衝撃だったことだろうと思う。

この本を読むとそうした星さんの苦闘がなまなましく伝わってくるのだが、一方で、こんなことを思った。書くことの周辺にはいろんな思惑があるし、利害もある。それでも、そういうことでいかに苦しんでも、作品は残る。作家個人のいろんな思惑を超えて、作品は作品として輝きを放つ。星さんの作品はまさにそういうものなのだ、と。

そして、これを読んで猛烈にショートショートが書きたくなった。今の自分の小説とは全然、違うやり方だが、ショートショートも私の原点のひとつである。小説を書きたいという私のなかの想いの底には、星さんの作品のようなものへの憧れもある。星さんの作品には足元にも及ばないだろうし、そもそも発表できるレベルになるかどうかもさだかではない。でも、今なら月に1作くらいは書けるんじゃないか。続ければ、そのうちそれなりのものも書けるんじゃないか。そう思って、今、プロットを練っているところである。

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ビリー・ワイルダー自作自伝

ビリー・ワイルダーというのは、「お熱いのがお好き」とか「麗しのサブリナ」などで知られるハリウッドの映画監督。キューブリックやビクトル・エリセと並んで、私の好きな映画監督である。
ワイルダーが好きなのは、正しくシナリオ型の監督だから。気の利いたセリフ、よく練られたアイデア、意外な展開。ストーリーの面白さというものを十分に堪能させてくれる。
物語があまりにも面白いので見落とされがちだが、実はワイルダーというのは退廃的な作品を撮る作家だ。妻の留守中、浮気を切望する男とか、女装して女ばかりの楽団に潜り込む男の話しとか、純情娘が遊び人をきどって男をたぶらかそうとする話しとか。
50年代の健全なモラルに対する果敢な挑戦者でもあったのである。まあ、今のモラルから見れば何が問題だったのだろうか、と思えるものだけど、当時の保守的な空気の中で、ワイルダーはいつもすれすれのところで戦っていたのだ。

「ビリー・ワイルダー自作自伝」というドイツのジャーナリストによるワイルダーの評伝は、この傑出した監督の背景を明らかにする。祖母と母と義父をアウシュビッツで殺されたとか、映画人になる前は退廃したベルリンでジャーナリストとして働き、ジゴロまがいのこともしていたとか。なるほど、ああいう作品を撮る人に影響したものが、十分に伝わってくる。
また、あれほど50年代、60年代初頭に輝きを放っていた彼が、60年代半ば以降は精彩を失う理由も、この評伝を読むとよくわかる。50年代末には完成されていたモノクロの技術。出てきたばかりで欠点の多いカラーよりも、モノクロに拘ったことで、ワイルダーは乗り遅れたといえる。モノクロからカラーへ、演劇的なものからリアルなものへ、暗喩から露骨な表現へとハリウッドが変化していったことに、彼は対応できなかったのだ。彼の作風はあまりにも上品すぎ、芝居がかったものと思われるようになっていく。モノクロの世界で、彼独自の美学やモラルを築くことにあまりにも成功していたことの、これは報復と言えるのかもしれない。

それでも、私はワイルダーが好きだ。本当に、1分1秒、見ている瞬間を楽しめる監督なんてそんなにはいない。その画面の密度、緊張感というのは、そうそう出せるものではない。そして、人生の悲哀とか絶望を知っている人間にしか描けない突き抜けた明るさ、深みが彼の作品にはある。映画を観る喜びをストレートに教えてくれる、数少ない監督だと私は思う。

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ブックファースト渋谷店閉店

http://www.shinbunka.co.jp/

昨年後半、小説の取材で書店のことをいろいろ調べていたのだが、この店は「よい書店」の代表例として、版元の営業マンからも、同じ書店業界の人間からも名前の挙がる店だった。作家や書評家の支持も高い。
渋谷という書店激戦区で、品揃えで客を呼べる、駅前店でなくても成功するということを証明して見せた書店である。
書店業界というのは今はとてもたいへんな状況にあると思うのだが、そんななかでも、この店は数少ない、希望を持って語られる店だったのに。

閉店の理由はビルの建て替えのためだそうで、かわりに渋谷の駅近くに中規模店、新宿西口に大型店が出来るそうだ。しかし、場所が変わり、スタッフが変わってしまうのであれば、それはもうブックファースト渋谷店とは別ものだ。新しい書店は新しい書店として頑張ってほしいけど、それでも寂しさは残る。
何かひとつ、取り返しのつかないものが街から消える気がする。

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上田まり子さんのこと

先日、ミクシィの方に上田まり子さんという方から連絡をいただいた。
上田さんはやはりワーキングマザーで、パンの本をパルコ出版から出されているという。それで親しみを感じてくださって、連絡いただいたのである。

さっそくパルコの編集者に上田さんのことを尋ねたら、彼女の著書を送った下さった。「上田まり子のMKホームベーカリーレシピ」というのがその本。パルコ出版は、実用書も結構、出版していて、上田さんの御本はヒット作なのだそう。
ホームベーカリー、所謂家庭用のパン焼き機を使い、さまざまパンのレシピを紹介している。写真もきれいだし、レシピも簡単なので、自分でも作りたい、と思わせるような素敵な本でした。

上田さんはもともとはパソコン関係の仕事をされていたのだけど、趣味で始めたパン作りがサイトで評判になったことがきっかけで、こうした本に結実したという。仕事も子育てもちゃんとしながら趣味もプロ級(っていうかもはやプロ)。すごいバイタリティだと感心します。世の中、いろんな人がいるものですね。

でも、本を出したおかげで、こうして今まで出会わなかった人との出会いがある、というのはとても楽しい。編集者としてつきあっていた縁は遠くなってしまったものも多いけど、作家として、またこうした縁が出来てくる。人生、捨てたものじゃありません。

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腐女子化する世界

先日、あるイベントの2次会で杉浦由美子さんと知り合った。
彼女は「AERA」などに寄稿されているライターで、コミックとか文芸に造詣が深い。腐女子と呼ばれる女オタクのことについても詳しい。私自身は腐女子ではないが、オタクものを多く出している出版社にいたので、まわりにそうした女性は多かったし、腐女子ビジネスについても少しは知識がある。それで杉浦さんとたちまち話があい、ミクシィのアドレスを交換した。それで後日、著書を交換しあった。

中公新書ラクレの「腐女子化する世界 東池袋のオタク女子たち」というのが、彼女の最新作のタイトルである。
腐女子というのは、世間の想像とは違って、一見、ごく普通の女性たちである。お洒落もするし、彼氏もいる。普通に就職もしている。だけど、ボーイズラブが好きなのだ。この本はあまり知られていないそうした女性たちの生態を紹介するだけでなく、なぜ、そうした層が生まれるのか、彼女たちの背景にある「生きづらさ」にまで踏み込んでいて興味深い。

結婚しているかどうか、子どもを持っているか否か、キャリアはどうなのか。
そういったことだけで計られるほど、女性の在り方は単純ではない。そしてそれが故に現代の女性たちは幸福感を得られにくい。
腐女子という存在は、そうした現代社会のあり方に対するひとつの対処の仕方である、という杉浦さんの指摘はたいへん鋭いし、重い。

興味を持たれた方は、ぜひご一読をお奨めしたい。

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グロテスク

桐野夏生さんの「グロテスク」を読んでいる。

これは以前、「週刊文春」に連載されていたとき、毎週読んでいた。それまで週刊誌の連載はほとんど読んだことが無かった。好きな作家の連載が載っていたとしても、本になるまで待って一気に読んだ方がいい。
だが、週刊誌の短いページ数でも、この連載は強く引き付けるものがあったのだと思う。他の女に対する意地悪な気持ちをこれでもか、と描写する。そのねちっこい視線に辟易しながらも、読まずにはいられない。だけど、読んでいると主人公の心根の暗さに引きずられるような気になる。
面白い。だけど、噂話で盛り上がったあとのような、自己嫌悪みたいなものを呼び起こす小説だ。そんなふうに思っていた。

改めて文庫でまとめて読んでみると、少し印象が変わった。
人に対する意地悪さも、エゴも、ここまで徹底していれば気持ちいい。
優しさだの愛だのを剥ぎ取り、剥き出しな欲望に殉じたとき、常に受身で奪われ、傷つけられる存在だった女が、逆に男を圧倒する。
男が作り上げた価値観から、そのとき初めて解放される。
その構造のグロテスクさ。
にもかかわらず、訪れる不思議な、静謐ともいうべき美しさ。
やっぱり連載で読んだ印象だけで決めてはいけませんね。桐野夏生さんという人はカッコイイ小説を書く人だ、と改めて思いました。

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装丁3

ある大手のベテランの営業の方に聞いた話。
本はひと目見てどんな本かわからなければならない、と彼は言う。
小説かエッセイか、実用書か。男性狙いなのか女性向けなのか。若い人向けなのか高年齢向けか。
本の表紙を見て本屋さんが瞬時にそうしたことがわかるものを作れ。なぜなら、本屋さんには毎日大量に新刊が届く。1冊1冊吟味している時間はない。だから曖昧な装丁では、本来置かれるべき売り場でないところに間違って置かれることもありうるのだ、と。

編集者が「これは○○の売り場に置いてもらえるようにしてください」と営業の人に頼むことがあるが、それを全国1万6千件の本屋に徹底するのは不可能だ。営業担当者ですら、大手では年々増えている自社の新刊のすべてを把握できない状態なのに、書店の人に売り場の指示などできるわけがない、と。
だから、最初から、わかりやすい本にすべきだ。そういう本を作らずに、本が正しい売り場に置かれず、本来のお客さんの手に届かなかったとしたら、それは営業ではなく編集者の責任だろう。

結局、いい装丁というのは、制作コストが妥当で制作によけいな手間がかからず、営業担当者にも書店員にも内容がわかりやすく、読者が魅力的に思う、そうしたものなのだ。装丁大賞を取れる本(はもちろんデザイン的には優れているとしても)が商品としていい装丁、というわけではない。
そして、そういう地道な仕事をきちんとできる編集者が本当に優秀な編集者なのである。

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装丁2

三浦しをんさんの「まほろ駅前多田便利軒」が直木賞を受賞したとき、出版社の制作関係者の間で、「あれは担当編集者も直木賞を想定してなかったんじゃないか」という冗談がささやかれた。もし、直木賞を想定しているのであれば、フランス装なんかにはしなかっただろう、と。

フランス装というのは、印刷した本文用紙を折りたたんだまま、小口を化粧断ちしないで綴じているもの、というのが本来の定義らしい。日本では簡易版で必ずしもその通りではないようだが、どちらにしろ手間がかかるそうだ。日本でフランス装ができる工場がたったの1件しかないそうなので、そんな装丁にした日には、あがりに時間がかかる。フランス装にも仕上がりが軽くなるとかいい点はあるのだが、もし、直木賞を受賞することを予想しているのであれば、もっと重版制作に時間がかからないやり方を選ぶはずだ、と。
直木賞受賞作品は、受賞が決まった途端、数万単位で重版をかけるだろうし、時期ものでもあるから一刻も早い制作が求められる。もたもたしていたのでは売り逃してしまう。実際、いままでの文藝春秋社の直木賞受賞作品、とくに受賞が確実視されているものは、重版しやすい作りになっていたらしい。

よい装丁というのは、だから重版に手間がかからず、コストもかからない、ということも大事だ。懲りすぎると、重版最低ロットが1000部くらいでは採算が採れない、なんてこともありうる。最低ロットが2000部とか3000部ということになってしまうと、少々本が足りないくらいでは重版がかけられない。
デザインに凝って、素晴らしい装丁になったとしても、制作に時間がかかり、お金もかかるのであれば、結局は編集者の自己満足ということかもしれない。それで劇的に売り上げが伸びるのであればいいのだが、そうならないことの方が多い。一方でたいていの作家は素晴らしい装丁でなかなか重版がかからないことよりも、普通の装丁で1000部でも重版がかかることをよしとするものなのだから。

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装丁

先日、ある文芸系の中堅出版社の営業の方とお話をした。
彼は最近、自社で刊行された本の装丁についての不満を語っていた。
凝った紙を使い、特殊な加工をしているけど、効果になっていない、と。
確かに、その装丁だけではどんな内容かわかりにくいし、帯のデザインとちぐはぐ。本文は級数を大きくしているので低年齢を狙っているかと思えば、ルビが少なすぎる。表紙も大人っぽすぎる。どういう読者層に向けた装丁なのか、さっぱりわからない。
「結局は、編集者とデザイナーの自己満足。うちでは滅多にできない高い装丁だから、それだけで満足しちゃってるんですよ」
という不満を述べられていた。装丁の失敗が売り上げの悪さに反映しているのだ、と。

そういう失敗は結構多い。案外、編集者はデザインの良し悪しがわからない、というか、凝ったもの、手のかかったものをよし、とする勘違いに陥りがちだ。
むしろ営業の人の方がたくさんの表紙を見て、実際の売れ行きも掴んでいるだけに、売れる装丁、売れない装丁に敏感だ。彼らは売れる装丁の条件は、まず第一にわかりやすいこと、だという。売れるものは案外シンプルなものだ、と。

とはいうものの、編集者が一生懸命、熱意を籠めて作ると、妙なパワーが宿ることがある。そうした本は平台に置いたとき、オーラを放つというか、目立つものになる。それがわかっているだけに、編集者はこれ、と思う本の装丁にはつい、肩に力が入ってしまうんだけどね。それが売り上げに結びつくかどうかは、絶対ではないのだけど。

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文庫の付加価値

先日、ある作家の文庫を2冊手に入れた。この作家はすでに亡くなられているが、依然、ファンの人気は根強いのだろう。いろいろな出版社からいまだ何種類も文庫が刊行されている。これも今年になって新装版として出されたもの。ジャンルでいえばSFだが、我々世代にとっては中学、高校時代の必読書だった、といっても過言ではない。

だが、この文庫を見て、愕然とした。片方の本には作家のあとがき、当時の解説、それに書評家による新しい解説まで収録されていて至れり付くせり。だが、同じシリーズで同時発売されたもう1冊については、あとがきも解説もない。初出の記載さえない(ちなみにこちらの方が解説付きのものよりかなり薄い)。
なんじゃ、これは、である。

どうしてこういう事情になったのかは、だいたい予想がつく。本の場合、16ページで1単位(1折という)なので16ページの倍数でページを収めるのが理想的である。だから、今回の場合、編集者がざっと計算をして、本文とイラストと発刊の辞、奥付と絶対必要な要素を入れると14折224ページに3ページ足りないだけ。だったら、解説とか頼むよりも広告と白ページで3ページ埋めればいいじゃん、と編集者が考えたのだろう。
解説頼むと締め切りとかめんどくさいし、お金もかかるし、解説を半端に頼んでページが増えても困るし。ページ増えると価格もあがるから、読者も安いほうがいいだろう、なんて考えたんだろう。

この作家の作品は若い人にもアピールするだけの内容を備えていると思う。あえてイラストをつけたりしているのは、若いファンを意識してのことだろうが、若いファンだって、この作家がどういう人だったか、どういう事情でこの本が書かれたか、知りたいだろう。
それに、この本を買おうと思うのは、圧倒的にオールドファン。昔読んで面白かったけど、本を無くしてしまったから、また買ってみよう、そういうファンが圧倒的だろう。そういう人間にとっては、イラストは別に無くてもかまわない。それより読み応えのある解説を載せてくれたり、初出を掲載してくれる方が大事だ。

最初の本にしても、作家のあとがきは改版当時のもの、かつての解説は初版当時のもの、とばらばら。どうせだったら初版の作家のあとがきも載せろよ。
それにこの作家についてだったら、熱く語ってくれる著名人は多いはず。そういう人に語らせてもよかったんじゃないか。
改定版だからこそ、いろいろな創意工夫が必要だし、編集者の腕の見せ所でもある。そして、そういう付加価値が、こういう本では購入動機を大きく左右するものになる。というか、むしろ付加価値の魅力で売る本だろう。
そういうことを考えないと、こういう安直な本を作ってしまうんだね。作家が生きていれば文句も出るだろうが、亡くなっているんで手を抜いても文句が出ないもんね。それにしても、編集者が未熟でこういう乱暴な作りをしていたら上司や先輩が注意しないものだろうか。

かつては文庫は10年20年残るもの、として手を掛けて作っていた気がするけど、いまは初版売り切りが多い(この本がそうなったら、作品のせいでなく、編集者がそうさせたんだと思いますけどね)。予算のためにとりあえず点数揃えます、みたいな風潮が強くなっているから、こんなんでも許されるのだろうか。
本当にテンションの低い、安易な文庫だと思った。

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日経新聞に載る

「サリダ」で紹介してくださっている、という情報を得たので、チェックしなきゃ、と思っていたら編集の森さんからファックス。日経新聞で北上次郎さんが取り上げてくださった。

星三つなので、おそらく健闘賞くらいの評価だと思いますが、これだけたくさんある小説の中から目にとめてくださったというのはすごいことだし、心に残るものがあったということでしょう。正直、書評家の方が気に入ってくださるタイプの小説だと思っていなかったので、嬉しく思います。

書評家の方に評価されない、と勝手に思っていたのは、以前ブログにも書いたけれど、目指したのは漫画のようにサクサク読める話。ありえないようなトラブルの連続、その後、一転してサクセスの連続。ストーリー構成が単純すぎるとか、前半後半のトーンがばらばらとか、ご都合主義とか、普通の小説の観点からすれば欠点が多いこともわかっていた。まあ、私としたらテンポとカタルシスをリアリティよりも重視したということではあります(そのへんはライトノベルの影響ですね)。
そんなわけで、書評家の方が評価してくださるものではないな、と勝手に思っていました(まあ、なかには漫画やライトノベルもたくさん読んでいる大森望さんのような例外はいるだろうけど)。ですから北上さんといい、吉田伸子さんといい、評価してくださる方がいるというのは意外な気もしますが、沢山本を読んでいらっしゃる方は許容範囲も広いのだなあ、と思い直しました。新人でデビュー作ということで、応援しようと思ってくださったのかもしれません。ともあれ、とても嬉しいです。ありがとうございます。

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ウソカノ

乙一著、「失はれる物語」の書き下ろし短編「ウソカノ」を読んだ。
読み終わった瞬間、思わず涙が出そうになった。
なにか強い作家の想いが籠められている。
このテンションは何だ?青春へのノスタルジア?決別?

もちろん、彼は泣ける物語はいくつか書いているし、この短編集は特にそういう物語を中心に編んである。しかし、この「ウソカノ」はちょっとテンションが違う。どこが、と言われると難しいのだが、ストーリーとか泣かせようという意図とか全然違うレベルで、なにか伝わってくるものがある。おかしな話だが何かの決意表明のような気もする。

小説は作り事を書くものだし、作家自身にこういう体験があったとも思わない。しかし、ある種の作家には作り事を越えた何かを作品に籠めることができる。乙一の作品のいくつかは、確実にそういう作品だ。そしてこの「ウソカノ」もそのひとつ。
こういう力を持った作家を人は天才と呼ぶのだ(本人は否定するだろうけど)、と溜息交じりに思う。

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2度目の取材

14日に取材を2件、受けた。

1件目はこの本のPRを担当してくださっている奥村知花さんの取材。
奥村さんはおもに本のPRをされている方で、仕事やプライベートで読んだ本についてをテーマにしたブログを作られている。今回はそのブログのための取材である。美人で知的な感じの女性。黒のスーツをきりりと着こなしており、プレスの女性と聞いて思い浮かべるカッコいいイメージを裏切らない。うーん、取材する人とされる人、逆ではないかしらん。

奥村さんは、小説から仕事をしていくうえでのプライオリティとか、他者とのかかわりについていろいろ読み取ってくださったようだ。そのあたりのことをいろいろ質問されたのだが、あまりうまく答えられなかった。取材馴れしていないせいもあって、どのように答えたら相手につたわりやすいかが、まだわかっていないのである。
さらに、小説の主人公と私個人の考えや行動が似ているようで、じつはそうではない。そのあたりを説明するのが難しいな、と思った。これは、おそらく小説家と呼ばれる人が取材をされるときに常に感じることなのかもしれないけど。
いままで、編集者とかライターという立場で何人にも取材したし、質問することには慣れているつもりだけど、うまく答えるのはなかなか難しいと思った。

実は、編集の森さんがそのあたりのことを予測して、雑誌の取材の前に奥村さんとの取材をセッティングしてくださったようである。奥村さんは言ってみれば身内のようなものだから、取材の受け答えが悪くても、森さんの方でフォローができる。実際、途中、私の言葉が詰まったとき、森さんが助けてくださった。そういう細やかな気遣いはとても有難く、心強い。よたよたしながらも、なんとか奥村さんの取材を終わらせ、続いて雑誌「グラマラス」の取材である。

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「盗作」を読む

「アナン、」に引き続き、飯田譲治、梓河人さんの「盗作」を読む。

発売元が講談社で、タイトルが「盗作」というと、ミステリーか、と思ったら、大間違い。
なぜ、盗作が起こったのかという謎解きはあるのだけど、普通のミステリの展開とは全然、違う。このオチを良しとしない人もいるだろう(私は好きだけど)。だから読む人を選ぶ小説かもしれないが、それでも読む人を作品に引き込む迫力、豊かなイマジネーション、抜群のリーダビリティーといった、この作家の特性は健在だ。一気読みの快感を得られる第1級のエンタテインメントであることは間違いない。

オチにかかわるので、あまり多くは書けないが、作家の創作衝動というのはなぜ起こるのだろう。なんで人は小説を書くのだろう。これを読んで、改めて考えさせた。
私の知り合いで、天才と呼ばれる作家がいる。彼はそう呼ばれるのを嫌がって、「技術さえあれば、誰でも小説が書ける」と言う。私も書くことの技術は否定しないけれど、何かを小説で書こうと思う衝動、物語の発想はどこからくるのだろう。それが無ければ、技術があっても小説は書けないのだ、と思う。その発想のユニークさを、人は天才と言うのだと思うのだけどね。

あ、あんまり「盗作」の感想になってませんね。でも、ネタばらしになってしまうので、内容についてはあまり書けません。いろいろ考えることの多い作品だったのですが。読んだ人がいたら、ぜひ、語り合いたいと思います。

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「アナン、」を読む

体調が悪いのをいいことに読書三昧。
飯田譲治・梓河人さんの「アナン、」を読む。前から読みたかったんだよね、これ。ようやく講談社から文庫版が出たので、早速、購入。一気読み。

やっぱり、すごい。作品に引き込む力、読ませる力が圧倒的だ。
なんという才能だろう。

飯田譲治さんは映像作家として著名で、梓さんも映像制作に協力しているということだから、ふたり名義の小説はだいたい映像がらみ。その中で「アナン、」は珍しく、小説オリジナル(いずれ映像化するらしいが)になる。
簡単に小説を紹介すると、

ホームレスに拾われた赤ん坊のアナンが不思議な力で人々のこころに奇跡を起すスピリチュアル・ファンタジー。

という感じなのだろうけど、これではどうにもこの作品の魅力を伝え難い。
言葉でこの作品の魅力を説明しようとすればするほど、どこかずれていってしまう。
スピリチュアルという言葉には胡散臭い響きがあり、ファンタジーには現実離れした嘘くささが感じられる(個人的にはスピリチュアルもファンタジーも大好きだけど)。だが、このリアリティは、力強さは、なんと評したらいいのか。

さらに、捨て子だった少年アナンがホームレスに拾われて育てられ、やがて海辺の町に移り住み、モザイク作家として独自な美的才能を開花させていく、そんなふうにかいつまんであらすじを説明したところで、この作品の魅力が伝わるとも思えない。龍や幽霊や殺人や宝探しや、その他、細部の魅力的な要素がうまく説明できずに零れ落ちてしまう。

カテゴライズするには、あまりにスケールが大きく、オリジナリティに溢れている。
きっと、そういうことなのだろう。

私にはこの作品をうまく説明する言葉がない。
ただ、物語を読む幸福。
それを味わうことのできる稀有な作品であることだけは、間違いない。

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本格小説

めまいがまだ完全には取れなくて、ごろごろしているのをいいことに、読書に励む。
水村美苗さんの「本格小説」を読む。
面白い。一気読みしたいときに、ぴったり。
「嵐が丘」とか「風と共に去りぬ」だとか、学生時代に読んだ世界名作文学を思わせるような、骨太で重厚なロマンス小説だ。
現代の物語なのに「生まれながらにして、究極の古典」というキャッチがついているのも頷ける。
著者は長くアメリカに滞在した人なので、日本の文壇の流行とか日本文化の在り方からも距離を置いているからこそ、こうした物語が書けるのだろうか。
いま、日本の作家がこうした大浪漫を書こうとしたら、歴史物を書くしかない気がする。

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岡島二人さんのこと

講談社文庫の「おかしな二人 岡島二人盛衰記」を読んだ。

「2005年版 この文庫がすごい!」の1位に岡島さんの「99%の誘拐」が選ばれたためか、近頃、岡島さんの再評価がされているらしい。私自身は好きな作家さんなので、とても嬉しい。「おかしな二人」も奥付を見ると1996年初版で、今年になって2刷が出ている。おそらく絶版になっていたものが、このブームで重版がかかったのだろう。

知ってる人も多いだろうけど、岡島二人は徳山諄一さんと井上夢人さんのペンネーム。ふたりの人間の合作によって80年代に数々の名作を世に送り出してきた。この岡島二人が、どのように誕生し、どんな作業をして作品を作り上げていったか、そしてなぜコンビを解消するに至ったかが、当事者のひとり井上夢人さんによって語られたのが「おかしな二人」という本。

自分で小説を書いてみると、ほかの作家がどのように創作をしているかが気になり、これを読んでみたのだけど、とても参考になりました。どうやってアイデアが生まれ、どのようにそれを展開して作品に仕上げていったか、その間にどんなやりとりがあったか。岡島さんの代表的な作品のいくつかについて詳細に書かれていて、ファンとしてはとても興味深いし、また勉強にもなる(ただ、解散に至るくだりは、率直に書かれているが故にファンとしては辛いのだが)。小説を書こうと思っている人は、下手な小説作法を読むより、これを読んだ方がずっとためになる、と断言できる。

ただ、驚いたのは、「自分たちは売れていない」と井上さんが書いておられること。それもまんざら謙遜ではないらしい。私自身も、遅れてきたファンなので(それでも90年代前半頃にはまったのですが)、岡島二人の全盛期を直接的には知らないのだけど、これほど面白い本が売れていないはずはない、と勝手に思い込んでいたので、意外でした。

ミステリファンが多様化した今だから、岡島作品が再評価されるんだろうと思う。ようやく時代が岡島作品を正統に評価できるようになったのだろう。力のある作品は不滅だ、と思うと同時に、いまになって「99%の誘拐」を再文庫化した講談社の編集者はエライと思う。

それからもうひとつ、「おかしな二人」を読んで驚いたことがあった。「99%の誘拐」の最初の(つまり親本の)担当編集は徳間書店の高木まり子さん、と書かれてあったこと。
高木さんは、20年前に私がフリーのライターとして徳間書店に出入りしていた頃、面識がある。当時は入社したてで初々しく、可愛いお嬢さんという感じの方だった。
徳間書店からマガジンハウスに移られてまもなく、30そこそこの若さでくも膜下出血で亡くなられたと聞く。もし元気でいらしたら、自分の作った本が再評価されていることを喜ばれただろうに。
とても残念です。

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